タイトルの意味は「素晴らしい日本語」。素晴らしい日本人、と言う意味に取って貰っても差し支えないが、こちらの意図は日本語、つまり国語の素晴らしさを説明したい、というところにある。
日本語の素晴らしさを痛感したのは、やはり今の仕事を始めてから。
日本語ならA4一ページで済む内容が、英語にすると一ページ半になってしまう事に気付いたのが最初。まぁ、当たり前と言えば当たり前で、日本語には漢字と呼ばれるスーパーツールがあるから、文章がどうしても効率的になる。方や英語は僅か26文字のアルファベットで表現しないといけないから、どうしても冗長になる。というか、日本語話者にとっては、僅か26文字で言葉が成立してしまうことの方が奇跡的に感じてしまうのだが、世界の大半は少数の文字で言語を構成していて、日本語のように何千種類(何万種類?)もの文字を使える言葉の方が少数派だろう。
日本語の文字数の多さと、日本語における漢字が表意文字であることが可能にしている日本語の奇跡的な効率性がある。そう、日本語は極めて効率的な言語だ。
日本語の文書は読む必要が無い。そう、読まなくてもいい。一瞥すれば、大体意味がとれる。なぜかというと、漢字が表意文字なので、漢字を眺める、あるいは見るだけで、文章の意味が汲み取れてしまうのである。これはとんでもない効率だ。
英語話者でも同じようなことはたぶん可能なんだろうけど、使える文字数の多さが「見るだけで意味をくみ取れる」日本語の効率性をはるかに高くしている。
そう、日本語は素晴らしい言語なのだ。
日本語の素晴らしさを肌で感じたい人は、twitter を英語でつぶやいてみたらいい。
日本語でつぶやく時に比べて、英語でつぶやく時の方が圧倒的に一回のtweetで発信できる情報量が少ないことに気付くだろう。
日本語なら、それこそ英語の3~4倍の情報量を140字で発信することができる。逆に言うと、日本語における1tweetの情報量を発信するのに際し、英語では3~4tweetを必要とするわけだ。
日本語の効率性を理解してもらえただろうか。
加えて、日本語は高等な学問をすべて網羅することができる、数少ない言語のひとつである。
日本人の英語アレルギーはちょっとひどくて、英語が喋れることが素晴らしいというような変な風潮があることは理解しているが、だからと言って大学や大学院の授業を英語でするなんて、馬鹿な事をしてはいけない。日本の大学は日本人のためのものだから、基本は日本語で授業をするべきであって、日本に留学したいなら留学する方が日本語を学べばいい。なにも日本が合わせることなんてない。
確かに、英語で論文を書いたり発表したりする必要性は認める。だが、授業を英語にするのと、論文を英語で書けるようになるのとは話が違う。論文を英語で発表するとか、学会で英語で発表することを強化したいなら、そのための特別英語コースを大学や大学院で設ければいいのであって、講義を英語ですれば良いというのは短絡的かつ馬鹿げた発想と言わなければならない。なぜかと言うと、日本人が英語で授業をしたら、する方もうまく表現出来ないし、受ける方も完璧には理解できないからだ。馬鹿げた西洋人ごっこをしているようなものだ。そんなことをせずに、すんなり表現で来て、すんなり理解できる日本語で講義をすればいいのだ。お互いに時間を節約できて、それだけ研究に振り向ける時間ができる。
日本語の素晴らしい点の、もっとも大きなところは、高等な学問を日本語で学べ、論じられるところだ。
こんなに素晴らしい日本語という言語を貰ったことに、日本人は神様に感謝するべきだと、僕は本気で思っている。
日本語を使うよりも英語を使う事が高等であり、国際的だと思う人に聞いてみたい。
フィリピンは、高度な科学技術を持った先進国だろうか?
スリランカは、複雑な工業体系をもった高度に産業が発達した国だろうか?
アルジェリアは、自国内に高度に産業が発達し、付加価値のある工業製品を自前で設計・生産できる国だろうか?
答えはここに書くまでもないだろう。
しかし上にあげた3カ国の共通点は、大学の授業が英語・あるいは仏語で行われている、という点にある。フィリピンに至っては、数学などの理系科目に関しては中学から英語を使って授業を行っている。
だから、これらの国の高学歴の人たちは、英語や仏語が達者である。(でも、彼らがすごく英語や仏語が出来るとは、僕は思わないけどね)
なぜ、彼らは英語や仏語で授業をしたり、授業を受けたりする必要があるのだろう?
それは、彼らの母語が科学を記述し、議論するのに向かないからだ。
つまり、彼らは本当は、タガログ語や、シンハラ語や、アラブ語で数学や科学を学んだり、論じたりしたいのに、彼らの母語がそれに向かないから、やむを得ず英語や仏語を使っているに過ぎない。
たしかに、彼らは英語やフランス語が達者だ。だが、高等な科学を学べる人間が、国民の大部分を占めることができないことに、彼らの国の不幸がある。
それはそうだ。外国語を使ってでないと、高等数学や科学を学べないのだから、国民の大部分は高等な数学・科学と縁がないことになる。そのような国民のポテンシャルの国で、高度な産業が発達し花開くだろうか?それは無理な相談だ。
フィリピン、バングラデシュ、スリランカ、そしてアルジェリアの特徴は、英語や仏語ができて、学歴があって高度な技術力を身に付けた人たちが、国を出て行ってしまって海外で稼いでしまう、という点にある。つまり、他の豊かな国に優秀な人材を供給する国になってしまって、国内に優秀な人材が残らない国になってしまう、と言う事だ。
国外に出稼ぎに出た人たちは外貨を稼いでくるだろうが、国内に優秀な人材が残っていない国が、発展することができるだろうか?
彼らの悩みは、まさにその点にある。英語や仏語は出来るけど、国は発展しない。それが彼らの悩んでいるところだ。
片や、母国語で高等な数学・科学を学べる日本人の平均的な技術レベルは、世界と比べるとものすごく高い。
日本人は確かに、傑出した天才を輩出しないかもしれないが、平凡な日本人をピックアップして他国の平凡な国民と比較すると、ほぼ間違いなく、日本人の平均レベルが持つ優秀さ・技術力は他の国の平均をはるかに凌ぐに違いない。日本人と互角に戦えるのはドイツぐらいではないだろうか?つまり、日本人においては、言葉は悪いが「烏合の衆」レベルの人たちが、とんでもなくブリリアントでレベルが高いのだ。これはすべて、難しい科学を自在に学ぶことができる日本語のおかげであり、日本語をそのような言語にしてくれた先人たち、特に幕末から明治期の先人たちの偉業によるものだ。
そんなに素晴らしい日本語を持っているのに、なぜ大学や大学院の講義で英語を使おうとするのだろう?アホとしか言いようがない。
多国籍企業においては、確かに英語がコミュニケーションの大事なツールとなりうる。だが、多国籍企業においても、日本人同士は日本語を使ってコミュニケーションする方がはるかに効率的だ。日本資本の会社で、従業員の多くを日本人が占める会社なら、なおのこと日本語のコミュニケーションを大切にするべきだ。英語と並立してもいいが、英語が日本語に優先するようでは、会社の効率性をむざむざ犠牲にしているだけだと、僕は思うよ。
日本の主要産業を「出稼ぎ労働者」にしたいなら、英語化を進めるべきだろう。
だが、高度に発達した工業国、先進国の地位を維持したいなら、日本語をもっと大事にするべきだろう。
日本を高度に発展させるのは、一部の英語が喋れるエリートの仕事では無くて、国民全体の仕事だからだ。
年末に飲んだ白霧島のラベル。
日本語だと「白」の一文字で済むのに、英語だとwhiteで5文字も必要になる。
「本格芋焼酎」は "Genuine distilled spirits made from potato"だろうか?なんにせよ、冗長なことだ。
もちろん、僕は英語を否定するつもりはない。
英語は世界と対等に渡り合ってゆくための必須ツールだ。
だが、だからと言って、国民の教育に占める大事な役割を、素晴らしい効率性を備えた日本語から、非効率な英語に移すことには、僕はすさまじい抵抗を感じるし、そんなことを実行に移した人たちの思慮の浅さを嘆いてしまう。
日本人が再評価しないといけないのは、僕たちのすばらしい歴史、つまり黄色人種として白人の帝国を初めて倒し、アジアの植民地を白人の手から解放した誇るべき歴史だけではない。
日本語の素晴らしさと効率性を僕たちは再評価するべきだし、日本語を素晴らしいものにしてくれた先人たちと、日本語を与えてくれた神様に、僕たちは感謝するべきだ。
僕は確信的にそう思うよ。
今回の写真も EM-5 + ZD 50mm Macro の仕業。日本のお正月に撮ったものだよ。
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